ハワイツアー外伝・ハワイの歴史

houkouonchi2012-03-30

先日行って来た、℃-uteのハワイツアー。
メンバー帯同のオプショナルツアーで、矢島舞美中島早貴のグループはノースショアに行きました。
その中で、ヌアヌ・パリ展望台にも行ったようです。
このヌアヌ・パリという風の強い場所は、古戦場です。
ハワイ統一戦争最大の激戦、ヌアヌ・パリの戦いについて書いてみます。
 
 
 
ハワイ王国建国の英雄・カメハメハは、元はハワイ島の王族の1人でした。
王族とは言っても格が低く、カラニオプウ王のボディーガードをしていました。
この時期最も強かったのは、マウイ島ラハイナを根拠地とした王・カヘキリ2世でした。
カヘキリはオアフ島東部のカハハナ酋長に娘を嫁がせ、ラハイナに住まわせました。
ここでの贅沢になれたカハハナ酋長はすっかり暴君となり、頃合をみてカヘキリはカハハナを殺しました。
暴君を取り除いたカヘキリは英雄視されました。
カヘキリは最大の人口を持つオアフ島に移り、西オアフ島のイナイナ女酋長、ナヒオレア、エラニといった反対勢力を抹殺しました。
 
その頃のカメハメハは、ハワイ島北部を譲り受けるも、それに異を唱えるカラニオプウの息子たちと戦争になり、和平協定でなんとかハワイ島の3分の1を得るまでになりました。
カヘキリはハワイ島に度々陰謀をしかけ、北部のカメハメハ、ヒロ地区のケアウェー、南部のケオウアといった大酋長と抗争を行っていました。
やがてケオウアがケアウェーを殺し、カメハメハに戦争を仕掛けるも、彼の軍がキラウエア火山の下を通っている時に噴火が起こって軍の3分の1が死亡(今も兵士の足跡が遺跡に残る)、態勢を立て直したカメハメハが勝利しました。
隠れるケオウアを「重要な役につける」と言っておびき出し、生贄として殺して、カメハメハはハワイ島を統一しました。
 
その辺りで、マウイ島からオアフ島までを治めるカヘキリの寿命が尽きました。
カヘキリの子のカラニクプレと、異母弟のカエオが対立し、真珠湾の戦い、クキイアフの戦いを経てカラニクプレが勝利しました。
 
カヘキリ陣営の内紛を見逃さず、カメハメハはマウイ島を占領、その後ラナイ島、カホオラウェ島、モロカイ島を占領してオアフ島に迫りました。
カメハメハは、西洋人軍事顧問を雇い、銃火器を導入した他に、西洋式に軍制度を改めて大隊・中隊・小隊というように「酋長が率いる部族軍」から「中央集権的近代軍」に編制を改め、砲兵・工兵・歩兵を整備しました(騎兵は存在しない)。
天然の良港真珠湾を抱えるオアフ島のカラニクプレも銃火器を持ってはしましたが、西洋人を平気で生贄にする体質の為に顧問が存在せず、カメハメハのような中央集権も出来ていませんでした。
こんな不利なカラニクプレの元に、カメハメハ軍で砲兵隊長をしていたカウアイ島のカイアナ王子の一族が離脱・投降しました。
当初は留学経験があって火砲の扱いに秀でていたカイアナをカメハメハも重視していましたが、西洋人顧問が増えるにつれて疎み始め、カイアナの方も故郷が近づいて来たことからカメハメハの元を離れました。
こうして1785年、ヌアヌ・パリの戦いを迎えます。
 
 
 
モロカイ島カウナカカイ海岸を出発したカメハメハ軍は、およそ1万人でした(当時のハワイの全人口は約40万人)。
カイアナは、ワイキキに陣を敷いてカメハメハを迎え撃とうとしました。
しかしカメハメハ軍は、部隊を2つに分け、1隊でワイキキの部隊を拘束しつつ、カメハメハ率いる本隊はダイヤモンドヘッドを挟んだ反対側のワイアラエから上陸しました。
側面をつかれる事を知ったカイアナは、貴重な大砲を奪われることを恐れ、戦わずに後退しました。
こうしてワイキキにも無血上陸を果たしたカメハメハ軍は、湿地帯であるワイキキを離れ、現在のアラモアナ・ショッピングセンター近くに布陣しました。
 
対するカラニクプレとカイアナの連合軍は、まずカラニクプレがホノルル市内に要塞を築いて立て篭もり、カイアナはカメハメハ軍正面にある神殿に布陣し、パンチボウルの山側にカラニクプレの弟のコアラウカネが布陣して迎え撃ちました。
聖なる神殿に攻撃を仕掛けないだろうという予想は外れ、カメハメハの先鋒は神殿を焼くと、砲撃戦に出ました。
ホノルルにおいて大砲や銃の撃ち合い、銛の投げ合い、棍棒での殴り合いになりました。
 
ここでカメハメハがあらかじめ2つに分けておいた部隊、西洋人顧問が率いる銃隊がタンタラスの丘から現れ、コアラウカネの軍を蹴散らすと、高所に陣取ってオアフ島の軍を銃撃し始めました。
派手な衣装を身に纏っている酋長を狙い撃たれ、次第にオアフ島軍は劣勢になりました。
カイアナ王子は、部隊長として前線に出ていた彼の妻を庇って被弾し、戦死しました。
 
コアラウカネ隊の壊走、カイアナ隊の壊滅をもって、オアフ島軍の士気は挫けました。
ラニクプレが要塞に篭って足止めしている間に、オアフ島の兵士は山を通って北側に脱出しようとしました。
追撃するカメハメハ軍との間で、ホノルルからヌアヌ・パリに続く、長い長い撤退戦が行われました。
ようやく山頂に近いヌアヌ・パリにたどり着くと、そこにはカメハメハの本隊がいて、大砲設置用の濠まで掘って待ち構えていました。
ヌアヌ・パリには、大砲設置用の濠が遺跡として残っています。
この濠掘りには、カメハメハも自ら参加したとあります。
追撃に重い大砲は不向きなので、おそらくは戦いが始まる前からここで足止めすべく、カメハメハの本隊は大砲を持って、山頂に移動していたのでしょう。
麓からは、カメハメハ軍主力が追撃をかけてきて、山頂には砲兵陣地が存在。
このヌアヌ・パリがオアフ島軍の最後の場所となりました。
 
既に隊長である酋長をマスケット銃による狙撃で失い、兵士だけの烏合の衆となっていたオアフ島軍は、カメハメハ軍に押され、断崖(パリ)から突き落とされました。
この被害は数百から数千であり、墜落した兵士の大量の人骨も発掘されています。

こうしてオアフ島のカラニクプレ、カイアナを破ったカメハメハは、かつてオアフ島西部でカヘキリに殺されたイナイナ女酋長の息子・マテオ酋長と手を組み、西部の人間によって逃げていたカラニクプレを捕まえさせて生贄として殺し、完全にオアフ島を掌握しました。
ここにハワイ8島のうち6島を制覇したカメハメハは、ハワイ王国を立ててカメハメハ1世として即位しました。
ハワイ統一戦争は、この後10年続き、カウアイ島のカウムアリイや、ハワイ島におけるケオウアの残党と戦ったりはしますが、戦闘としてはこのヌアヌ・パリが最大のもので、これに勝ったカメハメハが王者となりました。
 
 
 
これがオプショナルツアーで行ったヌアヌ・パリの歴史です。
多分、ガイドさんもここまで詳しい戦闘詳細は知らないと思います。
クキイアフの戦いとか、まだ論文段階の情報ですしね。
 
ただ思ったのが、かつてアメリカ陸軍博物館のハワイ統一戦争期の展示を見た時に、
「銛や鈍器やサメの歯で作った武器、投石器しかない文明に、マスケット銃や大砲が来たら、そりゃカメハメハが勝つよな」
という感想が間違いだな、ということです。
カメハメハの敵陣営だって、銃火器は集めていました。
カメハメハは政治的に中央集権を成し遂げ、軍制改革に成功していて、軍隊を有機的に動かすことが出来たのです。
他の陣営は、大酋長の直接指揮がないと動かない為、大将自らが先陣に立つ勇気を示して兵士を動かしていました。
その為、大規模な別働隊というのも組織できず、手柄にならない陽動部隊も作れないのに対し、カメハメハの軍は彼自身が不在でも、部下によってしっかり命令どおりに、手柄にならない地道な役割でもこなしました。
 
ヌアヌ・パリに至る一連の戦いでも、
・ワイキキが固いと見るやワイアラエから上陸して側面をつき、敵の後退をもって主力の上陸をする
・パンチボール麓の戦闘では、主力による正面拘束と、別働隊による高地占領と敵指揮官狙撃
・ヌアヌ・パリでは砲兵と工兵による陣地構築
という、しっかりした「作戦」を実行しているのがカメハメハ軍です。
カメハメハは、決して近代兵器の恩恵だけで勝ったに非ず、それを駆使するに足る組織や戦術をもって勝った、そう言えます。