北条に関する色んな話

今日は久々に非ハロ日記も書きますので、興味ない方はここでサヨナラです。
今日「天地人」で小田原北条氏が滅びたので、それ系の話です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【描かれなかった戦・その1】
北条家は豊臣秀吉と戦うにあたり、ただ小田原城の強さを頼りに篭城を決めたのでしょうか?
違うとされています。
自分の考えも交えながら、その辺を解説していきたいと思います。
 
そもそも小田原篭城で勝算があるのは、北から攻められた場合です。
北条が頼りとするのは一つの小田原城ではなく、小田原に至るまでの防御陣の深さでした。
北関東経由で攻められた場合、いくつかの城は数日から数ヶ月抵抗して降伏、
いくつかは徹底抗戦で敵戦力を分割し、時間を稼ぎ、敵に消耗を強います。
そして小田原城で持ちこたえている間に、生き残った城から出撃したり、
ゲリラ戦を仕掛ける部隊を作ったりして、敵の補給を断ち、撤退に追い込みます。
こうなれば、追撃して戦果を拡大するも良しです。
北条家は北から攻められた場合、ロシアのように自領の広さを武器に
消耗戦を強いることが出来る稀有な大名家でした。
「稀有」というのは、本来自領に攻められた場合「ここの家は力が無い」と見限られ、
多くの豪族・地侍は敵につき、農民も次の支配者に早くから従おうとするからです。
北条家は戦国時代類例を見ない四公六民の軽税、武家支配の巧みさで、
領国を戦場にしても離反される心配がなかったわけです。
一時的に離れても、戻って来ると見てましたし。
(ドラマで描かれた松井田城の大道寺政繁も、北関東担当の鉢形城北条氏照も、
 時間さえ稼いだら降伏しても咎められなかった。実際、上杉謙信に降伏した忍城は北条に復帰し、
 石田三成相手に戦い、持ちこたえるドラマがあります)
後に勝海舟は「北条の支配が巧みだった為、徳川も関東に移ってから、
北条の時代を懐かしむ領民たちにあって大変だった」と書いてました。五代に渡って領民に慕われた訳です。
これからすれば、北条氏政・氏直は、凡将だったかもしれませんが、凡君ではなかったのです。
 
しかし、西から攻められた場合、この手は通じません。
本拠地小田原城より西の領土は、伊豆と駿河の一部だけで、縦深がまるで足りません。
箱根を突破されれば、すぐに小田原城です。
ゆえにこそ、西で東海道を扼する徳川家康と同盟を結んでいました。
しかし、天正十五年時点で豊臣政権との武力衝突は避けられないと見て
(名胡桃を北条が攻める前から、秀吉では動員命令を発してますし、そもそも火種は名胡桃よりも
北関東の佐竹や佐野、宇都宮などの豪族からの救援要請でした)、しかも肝心の徳川家が
豊臣政権に服従したとなると、自力で西からの攻撃を阻止しなければならなくなりました。
 
ここで北条家の勝利条件を設定します。
北条家は関東の支配権確立(平将門鎌倉幕府方式)を目的としていました。
中央政権にいるのが、足利将軍家だろうと細川家だろうと、三好・松永であろうと織田信長であろうと、
そちらとは無関係に関東の武士・農民の独立圏さえ確立出来れば良いのです。
ゆえに、自領の安堵を中央政権に認めさせれば、あとは形式ばかりの臣従くらいはしても良いでしょう。
豊臣政権に常陸の佐竹家などが接近し、秀吉は天下人の立場から自分に従う者は救わねばならず、
北条の関東独立勢力を認めないと見たからこそ、一戦交える気になったのです。
故に、徳川家康織田信雄小牧・長久手の戦いが、北条家としても求めうる最良の結果でした。
一戦して実力を認めさせ、自領の安堵と政権内で無視出来ない立場になる。
仮に失敗しても、九州攻めの時の島津家のように、本拠地(薩摩・大隈)安堵でも良かった訳です。
結果として中央政権に頭を下げようが、これまでの中央政権同様、秀吉だっていつまで
その地位にいるか分からない訳です。
豊臣政権が続いたとしても、関東最大の大名であれば、軽くは扱われないでしょう。
 
この条件を満たす為には、敵軍ことごとくを滅ぼす必要はなく、自分たちが侮れない相手と悟らせ、
外交決着に持ち込めば良いのです。
相手が使者を遣わし、条件交渉を始めたなら、その時点で勝ちと見て良いでしょう。
それゆえ、徳川家康を通じた北条氏直・氏規の外交ラインは確保したままでした。
そして、縦深を取れない西部方面において、東海道が通過する山中城
東海道古道が通過する足柄城、東海道駿河へ進出出来る伊豆の拠点・韮山城という
箱根に防御線を作り、城を改修・強化しました。
加えて、領土の壮丁に動員をかけ、10万近い兵力を集め、その中から機動軍5万を編成しました。
この軍は、必要に応じて小田原から出陣し、箱根に足止めされている豊臣軍と戦います。
(僕註:最初から箱根山中に置いておけば、足柄から突破されたり、
北関東からの北国軍が自由を得たりするので、内線防御をする為にも、
どこにでも出撃可能な位置に留めおいたのでしょう)
僕の考えですが、北条家の目的は小牧・長久手における徳川の成果、
戦い方もこれを習ったのではないでしょうか。
小牧の陣では、徳川家が小牧城を拠点に長城防衛線を作り、豊臣軍を拘束しました。
焦れた秀吉が別働隊を作って三河を攻撃しようとしたところ、
家康は機動軍をもってこれを潰しました(長久手の戦い)。
北条家も天正壬午の乱において、家康の新府城を中心とした防衛線に足止めされた経験を持ちます。
故に、山中城箱根山塊で豊臣軍を足止めし、焦れた豊臣軍が別働隊を出したら、
こちらも用意していた機動軍で殲滅する(「長久手の戦い」を生起する)意図があったものと考えます。
つまり、山中城がどれだけ踏ん張れるかが鍵であり、ここで数日豊臣軍を足止め出来れば、
地の利もある北条軍が有利な立場で一戦可能と見ていたのでしょう。
 
さて山中城ですが、北条家が頼りにするだけあります。
「レ」の字をした縄張りです。「レ」の奥の折れの部分が本丸・二の丸・三の丸です。
まあこんな感じですかね。
 
到・三島(駿河
 ↑
 ↑



袋 
崎 
砦 



・ 
大  
手     西櫓
門  櫓  ・
・    西の丸
三の丸・二の丸
 本丸
  北の丸
 ↓
到・小田原(相模)
(ぽつんとある「櫓」は「元西櫓」)
 
「レ」の縦の長辺(袋崎砦)の内側を東海道が平行に走り、東海道をそのまま進軍すれば、
長い袋崎砦から鉄砲を撃たれます。
袋崎砦を先端から攻めれば、縦に細長い為、大軍でも利を生かせず、消耗を強いられます。
袋崎砦は、先端から「擂鉢曲輪」「袋崎出丸」「馬場曲輪」「大手門」と連なって。独立した防衛網があります。
しかも袋崎砦は独立した郭なので、攻略しても本城を落とす場所にはなりません(伏撃は防げるが)。
袋崎砦を横から攻めれば、「レ」の跳ねの部分、西の丸から出撃する部隊に背後をつかれます。
西の丸を攻めれば、袋崎砦と本丸から攻撃を受けます。
本丸を直接攻めれば(二の丸攻撃になるが)、ここは奥に行くに従い補足なっていて大軍も利を生かせず、
さらに袋崎砦と西の丸から攻撃を受けます。
袋崎砦、西の丸も、その先端部に「角馬出」という北条家流築城の特徴である、
独立砲台(鉄砲攻撃用の出丸で、こういう表現にします)がある為、ここを先に攻めれば本体から攻撃が、
本体を攻めれば出丸から砲撃を食らう、という構造になっていました。
二の丸、三の丸も、要所要所に鉄砲を撃つ為のプラットフォームが設けられています。
そして周囲は、畝堀・障子堀という、大軍を分断する堀をめぐらし、さらに各郭間も堀切で分断され
(橋がかけられる)、独立した防衛が可能でした(各将が独立した指揮が可能。持ち場の遵守に適している)。
まさに北条家築城術の粋を集めた城でした。
(とはいえ、袋崎砦は天正十五年以降の突貫工事で、未完成だったようです)
 
では実際にはどうなったでしょう。
ここを守る北条軍は5千、対する豊臣軍は3万5千、7倍の戦力でした。
これは直接攻撃に参加した秀次軍だけで、後詰の秀吉本隊も同数いて、14倍の戦力から攻撃されました。
山中城は3〜5倍の敵軍なら食い止められると計算していましたが、実際はそれよりさらに多くが来ました。
(近代兵学でも、攻撃側は陣に篭る守備隊の3倍の戦力を必要とする、とされます)
そして、袋崎砦を中村一氏堀尾吉晴が、西の丸を徳川家康が、本丸を一柳直末が攻め、
山内一豊が予備と、防御拠点を同時にまとめて攻撃するという、
北条家の防衛構想もへったくれもない物量作戦で来ました。
それでも山中城は豊臣軍に出血を強い、一柳直末は鉄砲で撃たれて戦死しました。
中村一氏堀尾吉晴らは損害を出しながらもなんとか袋崎砦を占領しましたが、そこから先に進めなくなりました。
普通はここで一時休止するものを、ここが勝負どころと踏んだ秀吉は攻撃続行を命令、
犠牲を出しながら中村軍が袋崎砦から本丸に進軍、徳川軍は西の丸を強行で落とし、大手門も陥落しました。
ここで山中城守備隊の失策が起きます。北条氏長を生き残らせる為に脱出させたところ、
城兵が混乱し、一気に落城に追い込まれました。
わずか半日、北条軍の予想より遥かに早い箱根突破となりました。
 
その後、やはり3万5千で包囲された韮山城は持ちこたえたり、
水軍根拠地の下田城もわずかな兵力で持ちこたえたり、北国軍の進撃は予想よりも遅く
秀吉を苛立たせたりと些細な蹉跌はありましたが、箱根を突破された時点で北条家の戦略は大きく崩れ、
結局立て直せないまま開城となりました。
北条家からすれば、決戦用の兵力を使えないまま終わったことになり、秀吉側の視点で見れば、
勝負どころで兵力を惜しみなく投入したことで相手を封じ込めることに成功したと言えます。
数字で見れば、5千対3万5千の局所的な戦い、前哨戦に過ぎないのですが、
戦役全体で見ればここが一番肝心な一戦だったと見ます。
秀吉の勝負勘、ここ一番で惜しみなく投入した物量が、北条の思惑を打ち破ってしまったと。
そして、単なる戦術的な勝利ではなく、箱根防衛と機動軍の有効利用という北条家の戦略を
早々に破綻させた勝利と言えます。
(IFになりますが、予定通り3日持ちこたえれば、北条氏直が率いる5万が箱根に到着し、
 山中城を攻め疲れている3万5千を攻撃する後詰決戦が行われます。
 秀吉軍は本隊3万5千がいるので、合計7万対5万の決戦になりますが、
 地の利は北条勢にあり、また北条も相当の鉄砲を持っていますから、勝敗は分からないでしょう。
 まあ、家康がいるから、秀吉は負けないと思いますが)
 
大河ドラマで描かれた、小田原包囲後の場面は、もう余事ですね。
時間をかけて終戦に向かっていく過程であり、ここで伊達政宗ら東北の諸大名を屈服させた
政治的意味はありますが、勝負どころはとっくに過ぎていました。

 
【描かれなかった戦い・その2】
ドラマでは「北国軍」「東海道の本軍」と2路による攻撃が描かれましたが、あと一つあります。
水軍による伊豆周回ルートです。
無論、佐竹家や里見家による反撃(北関東や房総及び三浦半島)もありますが、
豊臣軍として見れば3路と言って良いでしょう。
(あと1個追加されますが)
 
水軍の話に入ります。
北条家が秀吉に勝つには、本拠地から遠く離れた豊臣軍の補給を切れば良いと考えて当然です。
実際、上杉謙信の電撃作戦で小田原城が包囲された時は、各地で補給部隊攻撃を行い、撤退に追い込んでいます。
上方から物資輸送をする場合、海路の方が大量輸送可能な為、制海権が重要になります。
北条家も水軍を持っていましたし、その根拠地は北条流築城術を凝らした水軍城です。
 
秀吉はこれに対し、九鬼嘉降、加藤嘉明脇坂安治長宗我部元親宇喜多秀家
さらに徳川の水軍をも動員しました。 兵力は1万4千以上。
 
北条は船将・梶原景宗(紀州水軍出身)の元、伊豆水軍と三浦水軍3千を
下田城・安良里城に集結し、決戦を挑みました。
駿河湾海戦は、清水港を出撃した豊臣水軍を迎え撃つ形で始まりました。
北条水軍にも大筒(大鉄砲)1門を装備した大船(あだけ丸)を始め、数百隻を準備していました。
駿河湾海戦と書きましたが、どうもこれは第二次駿河湾海戦と書いた方が良さそうです。
 
第一次駿河湾海戦(沼津沖海戦/千本浜沖海戦)は、北条氏政(船将・梶原景宗ら)と
武田勝頼(船将・小浜景隆ら)との間で行われました。
北条五代記」によると、機動力に勝る武田水軍に対し、北条水軍の船は大型で大砲装備な為、
武田水軍を打ち破るも、武田軍の船足が速い為に取り逃がした、となっています。
(「甲陽軍鑑」にもこの海戦の記述はありますが、船の規模に関する記述はありませんでした)
つまり北条水軍は大型船重視でした。
 
・・・・同じコンセプトなら、織田信長が九鬼嘉降に命じた方が徹底してました。
「小田原北条記」によると、天正十八年二月の第二次駿河湾海戦(清水沖海戦)は、
九鬼嘉降のさらなる大型船(大砲3門搭載)6隻によって散々に打ち破られ、
下田方面に逃げたとなっていました。
九鬼水軍で大砲3門積の大船6隻となると、第二次木津川海戦の鉄甲船を思い出しますが、
それかどうかは分かりませんでした。
 
安良里城はその後、徳川水軍によって落とされました。徳川水軍は、旧武田水軍を吸収していましたので、
沼津沖でも清水沖でも旧武田水軍が活躍していたかもしれません。
実際、徳川水軍の船将・向井正綱は元武田水軍ですし
(伊勢水軍→今川水軍→武田水軍→徳川水軍となっています)。
 
この敗北で、長浜新城・八木沢丸山城・三崎城・新井城・浦賀城等の水軍が
小田原防衛にまわってしまい、城は機能を失いました。
特に浦賀にいた水軍は、江戸湾経済圏争奪戦の相手・里見家に睨みを利かせていた為、
ここの水軍が失われたことで、里見水軍は行動の自由を取り戻し、
里見軍の三浦半島上陸を許すことになります。
まあ、ここで里見義康が、遅参やら惣無事令違反やらで秀吉に咎められ、
江戸湾は「里見の海」とはならなかった訳ですが。
豊臣水軍は、機能を失った伊豆沿岸の城を次々と攻略して行きましたが、
下田城だけは600人が守って戦い、一ヶ月も持ちこたえ、水軍は一部を包囲の為に残さざるを得ませんでした。
輸送を船に頼る豊臣軍には、ちょっとした蹉跌になりました。

とはいえ、先に書いた山中城攻防戦よりも早い二月の敗戦で、制海権を失って
小田原に水軍が逼塞したことは、北条にとっては痛手だったでしょう。
山中城攻防戦が三月末、小田原城が包囲されたのが四月頭ですが、二月頃といえば
北条軍の方が活発で、集結しつつある豊臣軍の物資集積地を襲撃したり焼き払ったりしていました。
上でも書いたのですが「山中城攻略・箱根突破が最大の鍵」と同様、前哨戦と言える時期の
海戦が輸送戦では最大の山場で、以降水軍の活動は消え、敗者ばかりか勝者すら
歴史から顧みられなくなったと言えます。。
(太平洋戦争に例えたら、開戦後一ヶ月でレイテ海戦に負けて艦隊が行動不能になり、
 開戦四ヶ月でマリアナが落ちて絶対国防圏が崩壊した為、あとは何年粘ろうが
 敗戦を先延ばしにしているのと一緒、となりますかね)
 
 
【描かれなかった戦い・その3】
今回の放送で、石田三成徳川家康
「城1つ落とせなかったそうじゃのお」
と嫌味言われてましたが、忍城はそうですが、館林城は一応開城させてます。
それに、忍城攻めには徳川軍も加勢してますし、徳川軍が負けた真田昌幸真田幸村(信繁)もいて、
それで落とせなかったので、家康が(ドラマとはいえ)あんなこと言ったら部下が怒りまっせ。
 
さて、ここで先の日記で書いた、東海道本隊・北国軍・水軍という3路以外の戦いを書きたいと思います。
本来この3路で十分と秀吉は見ていました。
しかし、
・北国軍は北関東で時間を食って、予定よりも進捗が遅い
・箱根近くの韮山城を包囲した織田信雄福島正則らがくぎ付けになっている
小田原城が力押しではまず落ちそうにない
以上の問題があり、補給の面倒を見て各地の大名に従軍させている豊臣家としては長期戦は望まないのに、
どうも長期戦になりそうな雰囲気になってきました(この辺は北条家の戦略通りと言えます。後手の方ですが)。
補給以外でも、成り上がりの秀吉にして見れば、てこずるようだと裏で何やら画策されそうで
大河ドラマの家康みたいではないにしても、もっと直接的に)、
本当に長期戦にはしたくなかったのです。
そこで、有力な織田軍を小田原攻囲にまわす為に、石田三成浅野長政らと交代させました。
ここで三成の部隊というのが出来るわけです。
 
北国軍はまだ上野あたりにいましたから、秀吉はかなりイライラして、
ドラマみたいに直江兼続に余裕なんか見せてなく、北国軍を名指しで叱責する書状を
送りつけたりしています。ドラマでは降伏勧告を受けずに抵抗した形の八王子城ですが、
あれは遅れを取り戻す為に、武蔵に到着した北国軍がパフォーマンス代わりに強襲したってのが実情です。
(そして八王子城はこの時以来、心霊スポットとなりました。
 どう見ても「愛」を掲げた人たちの軍のせいです、本当にありがとうございました)
そして、この北国軍が担っている、北条の領域を速やかに占領する役割を果たす為、
韮山城を包囲している石田三成らを呼び戻して、東方軍を編成しました。
韮山城攻囲は、最後の予備兵力・補給ルートの警護をしていた明石全登や前野康勝らを投入しました。
東方軍は三成が大将という訳ではないですが
(徳川軍もいる。でなければ、徳川軍を武功第一なんてまず言わない)、
この軍が北国軍が本来果たすべき北条の支城攻略を進めました
(これが北条の誤算。北国軍の遅延は予定通りなのに、もう一軍作られるのは計算外)。
その一環で、三成が責任者の支隊が館林城忍城攻略を命じられました。
館林は攻めた上で開城に持ち込みましたが、忍城に関しては、秀吉がパフォーマンスから
「水攻めにしろ」と口を挟んできました。
三成は反対したという書状が残っています。
しかし、水攻めをやらざるを得なくなり、失敗して自軍に水が流れ込み、損害を受けました。
ここで加勢として、北方軍から真田、さらには徳川軍まで投入されましたが、忍城は持ちこたえた訳です。
石田三成だけでなく、真田親子や大谷吉継佐竹義宣までいて負けてるので、
三成一人を「戦下手」にしたら可愛そうです。
徳川軍の後詰もあった訳ですしね。
(真田を戦下手にしたら、それに負けた徳川は何だ?となりますし、後詰の部下もいい面の皮)
 
この面子をもって落とせなかった堅城での戦をもって、石田三成は後世までずっと「戦下手」と
言われるわけですから、可愛そうだなと思います・・・・。
 
 
【描かれなかった戦い・経済戦】
ドラマで秀吉が「戦は金だ」と言ってましたが、これはまさにその通り!
小田原の役は、開戦が天正十七年十二月、小田原開城天正十八年七月で約八ヶ月とします。
秀吉軍は総勢22万ですから、細かい計算を省略して約238億円使ったことになります。
米としては32万石となります。
他に消耗品の金や、輸送の人件費を考えれば、さらに金がかかります。
 
秀吉の直轄領の石高は220万石、豊臣家の税率はニ公一民なので収入は147万石。
米で見れば、予算の22%を使ったことになりますね。
 
北条家は、諸説ありますが、10万が八ヶ月戦ったものとして計算すると、
食料は14万4千石を使ったことになります。
北条の石高は約210万石。税率は四公六民なので、収入は84万石。
一年の予算の17%を使いました。
地元で戦っていることもありますし、人件費は安く見積もれるとして、北条の方が経済負担は軽いですね。
豊臣軍は、やはり長期戦は好ましくないと言えます。
 
そして、この米やら金やらを扱っている石田三成は、それだけで評価すべきで、
忍城の件での評価はちょっと可愛そうです。
 
あと、この台詞を言われた直江兼続も、直江家が代々上杉(長尾)の経済担当で、
越後の経済を支えた青芋交易の港湾を支配していましたから、
「戦争は金」ってのを、物凄く理解出来る人間なんですよね。
父の樋口兼豊も食料備蓄担当ですしね。